ジカク
なぁ〜んでか? どぉ〜してか?
人体実験だと、倫理上非常にまずいが、不味いと感じている食べられるものを自分で食べる。例えば、あれとか、それとか・・・。記してしまうと、アレソレを一所懸命つくっている人々に申し訳がつかないので皆さんでアレソレを当て込んでほしい。
限度の中で、自分の人体をつかって実験するのは「今の自分をある程度知る」ということになる。昨日30数年ぶりに音楽発表会に未熟ながら参加した。「練習不足でまずいなぁ〜」と心も体もなにかも感じていたけれど・・・・まぁ自分実験だ。
思い返せば、小学校の頃は年に一度「学年別音楽会」が冬期にあって、暖房設備などない体育館の壇上で当日に向けふるえながら歌や楽器演奏の稽古をした。運動会も同じだったが、稽古が嫌で嫌で仕方なかった。ところが、当日最後の「練習段階」になると「その日」が待ち遠しくなってなかなか眠れなかったものだ。
子供のココロは純真素直なもので水を与えられるとすくすく育つひまわりのように伸びやかに“なにか”が発出する。小難しく綴っているが、それは自分が大人(はたちイジョウ)になったからだ。毒を喰らうのも大人であれば自己責任で「異常」を一般社会の限度枠の中で行ってよいことになっている。酒や煙草や博打や色事・・・。そのツケは、一年を経過して消滅時効とはならずキッチリ自分に帰ってくる。当然だ。
そうした毒気にさらされたり実体験したりして、大人は良くも悪くも「したたかさ」を身につけ複雑な現代社会をこなしていく。自立とでもいうのだろうか・・・? ひまわりのように伸びやかな子供の方が実のところ自立しているのかもしれない。子供たちの演奏を拝聴して、したたかそう感じた。
30数年ぶりの音楽発表会は昨日終わったが、その後自覚するところが大人的に山ほどあった。この年月の経過で獲得したり喪失してしまったものがたくさんあることに気がついた。メモ帳に記録しまくった。たぶんその後以降も「もやもや〜.....」と発出されるんだろう。ただしココロの中だけに。なぜなら「したたかさ」という軸が自分の中でグニョ〜ンを捻り込んで育っているからだ。今が、今こそが、「自分」で、それを変えていくのはシンドイと感じているから。
けれどそれはそれで、「今」はよいと思っている。ジカクして自分のジクがどんなものか30数年ぶりのモノサシをあてがうことはできたからだ。音楽演奏は結実して過去のものになってしまうが、そこを踏まえて見渡すと・・・譜面や楽器は“おとな”しく私を待ってくれている。
人はなかなか智慧あることも創りだすのだ。

